スマホで読めて真の実力者になれる「世の中取扱説明書」

スマホで読めます。通勤時間や隙間時間に忙しいビジネスマンや時間を持て余している学生さんなどに読んでもらいたいです。真の実力者になりましょう。

「所詮、人間界」

どうも、「世の中取扱説明書」です。

 

「所詮、人間界」というタイトルで話していきますね。

 

読者ターゲット。(読んで欲しい人)

タイトルに興味を持った人。

 

ゴール。(この記事を読んで得られること)

タイトルの意味が分かる。

 

では書いていきます。

目次。

1 この世は所詮、人間界の出来事。

2 TV局の人も人間界の人たち。

3 天才も所詮、人間界の人。

4 人間界において人間を理解できないことは致命的。

5 理解不能な人を天才と呼ぶ。

6 秀才だけが天才を理解可能だし、人間の本質を知らずに人間界で生きるのは無謀。

7 人間界における評価。

 

1 この世は所詮、人間界の出来事。

 

この世の中は所詮、人間が作ったルールの中で動いています。ビジネスの世界も政治の世界も所詮、人間界の出来事です。

 

宇宙の真理や自然科学は人間界とは別です。

 

しかし人文科学や社会科学は人間が多少なりとも絡むので人間界の重力には逆らえません。

 

もちろんビジネスや政治の世界もメディアの世界も人間界とは切っても切り離せません。

 

2 TV局の人も人間界の人たち。

 

TV局の人達がものすごい人ばかりで神聖視、絶対視している人も世の中はいると推測します。(TVの人だよと騒ぐミーハーがいることからも明らかです)

 

しかしTV局の人も芸能人も有名人も所詮、人間界のルールに収まる人に過ぎません。

 

以下の記事があります。

 

引用します。

 

安室奈美恵の“神格化”に古市憲寿氏「気持ち悪い」

 

12日の番組で古市憲寿氏が、18年での引退を発表した安室奈美恵に言及した。現在の安室について「神格化されていて、歌の帝王みたいな感じ」と指摘。「『NO』って言えない空気はちょっと気持ち悪いと思う」と語った。以上、ここまで。

 

3 天才も所詮、人間界の人。

  

さて以下のつぶやきを貼ります。

 

「天才が何を以て天才とされるかと言えば、スタンダードを創るという点に尽きると思う。だから天才の偉業ほど後の世には当たり前になってその偉大さのほどが正しく理解されないという。だから、それをそこまでの歴史的経緯も含めて解釈出来る秀才の存在が不可欠になるんだよな。

 

「ただ限りなく天才に近づいた秀才というのはいるんだけど、天才の役割とはそもそもそこにあるなにやらな概念的壁の突破で、その後の研鑽はおおよそ秀才の役割なんやな。なんで後追いなんだけど最終的に能力的に上回る事はあり得る。」

 

「なんかたまに見かけるが努力家で勤勉な天才などいない。能力の向上に努力と勤勉さが必要な時点でそれは優秀な秀才なだけで、天才とは呼吸するかの如く一般人の普通を凌駕する。」 以上、ここまで。

 

天才でさえ人間界のルールの中の人です。天才の偉業は多数の秀才によって認められます。

 

一時点では秀才や凡人には理解できなくても後世には正しかったと認められるのが天才の判断であり知恵なのです。

 

その天才といえども人間界でのはぐれ者であり外れ値であり、多数から理解されません。天才の偉業を理解する秀才や同じ天才がいないと天才の偉業なんて認められないのです

 

大半の人には理解不能だからです。

 

その天才でさえ人間界(多くの大半の人たち)から認められなければ存在意義がありません。

 

この世は所詮、人間界の出来事であり、人間界を理解することが人間界での成功法則なのです。

 

4 人間界において人間を理解できないことは致命的。

 

人間を理解できない人は自然科学系に行くしかありません。コンピュータでもいいでしょう。

 

すなわち人間を理解できないことはいかに致命的か?ということにつながります。人間界は多数の人間で構成されていますから当たり前の理屈です。

 

人間界の人間が人間に評価を下すのですから(評価者の能力の優劣はあれど)、間違いもあったり理解不能なこともあるわけです。

 

自分の能力以上、想像を超える人の思考回路や能力については普通は想像しにくいのです

 

5 理解不能な人を天才と呼ぶ。

 

理解不能な人をまとめて天才と扱っている風潮があるような気が僕はします。

 

しかし天才の思考回路はちゃんとその人なりの分析手法や理論や思考法があり、それを理解してない、理解できないから天才と呼んでいるに過ぎないと僕は思っています。

 

凡人は天才をどう認識するかというと誰か権威者に「あの人は天才だ」と言われて本当は何も理解してないのに「あの人は天才なんだ」と納得するわけです。

 

またはスポーツや将棋なら結果から判断することになります。結果を猛烈に出しているから「天才だ」というふうに。

 

秀才は天才をなんとか認識しようとし、それに到達できる人もいます。天才は天才の動きが(その専門分野であれば)おそらく読めていて、理解できているでしょう。「天才だからこそ天才のことがよくわかる」というわけです。

 

6 秀才だけが天才を理解可能だし、人間の本質を知らずに人間界で生きるのは無謀。

 

この世の中はこのような構図になっています。天才は凡人からしたら、能力の判別は不可能に近いので誰か権威者のお墨付きがあって初めて「この人は天才だ」と認識します。つまり判断能力、評価能力はありません。

 

秀才だけが天才をなんとか解読し、理解できる位置にいます。つまり判断、評価能力がある程度あるということです。

 

「天才と馬鹿は紙一重」という言葉が象徴している通り、天才も馬鹿も普通の人には理解不能な存在です。だからこそ、こういう格言が使われるのです。

 

このように人間は人間界で生きており、人間の本質を理解することなしに上手くやっていくことは難しいのです。「宇宙人や動物の世界に行け」と言われても無理ですしね。

 

7 人間界における評価。

 

最後に人間界の評価とは所詮、人間が下しているので時代によって評価は変わります平安時代は美人の定義が違っていたように美だけでなく、能力まで時代によって評価が違います。

 

極端な話、陸上のボルト選手は陸上という競技の評価軸があるからこそ、今の世の中で認められているわけであり、陸上という競技がなかったら「単に足の速い人」という扱いになります。足が速いだけなら動物(チーターなど多数)には敵いませんから。

 

他の競技も一緒です。人間界での評価軸があるからこそ、現在、認められている能力というのは多いです。

 

そしてその能力は大概、競争であり、相対評価です。微差で差がつきます。陸上のボルト選手も動物には敵いませんが、人間同士の微差の争いに勝っているからこそ認められるわけです。

 

人間界の世界で評価されるかどうかが人間界での成功を決めるという話でした。

 

ではこの辺で。